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アマルティア・セン『人間の安全保障』集英社新書、2006年
買ったのではなく図書館で借りたもの。センは20世紀最大と言っていいくらいの社会科学者だと個人的には思っているけれど、まだ新刊を買い集める余裕はない。でも2000年から2004年までの論文を集めたこの本も期待を裏切らず素晴らしい。「安全保障」というと軍備増強のことを連想してしまうが、著者は軍事面にとらわれず(母国インドの核兵器について書いた章もあるけれど)、安心して暮らせるという、生活保障も含むようなもっと広い意味で human securities という言葉を使っているようだ(ちなみに英語の securities には証券=株というような意味もあるところが面白い)。
識字率など教育が社会開発や被抑圧民の権利向上にとって重要であることは半ば常識だとは思うが、併せて「公共の論理」(ここで言う「論理」もいわゆる論理学的な論理というよりも思想とか発想というくらいの意味ではないかと思うが)という概念を持ち込んでいるところも興味深い。「公共の論理」は公の場で自由に議論できるというような意味のようで、表現の自由という法的視点では当たり前かもしれないが、双方向の対話に力点があると思われる。また彼の独自性がみられるのは、個人の選考をどのように集積して社会的な決定を出すかという方だと思うが、本書にはあまり出て来ていないようなのは残念。
インドの核開発問題(とパキスタンとの国交)について。全人類滅亡の危機に迫る決断を下すのが狂信者や独裁者だけではないという話よりも、パキスタンが核実験に踏み切ることが出来たのはインドが5回目の核実験を強行したからとか、必要度で言えば原子物理学者のほとんど居ないパキスタンの方が実験に踏み切る科学上の必要性が高かったといった冷静な分析が好きだ。是非論やあるべき論よりもこういう現実的な視点の方が参考になる。もちろん、両国の核実験を肯定しているわけではなく、インドが政治経済社会上の成長よりも軍備拡張を優先したことを批判する例として挿入されたエピソードであるが。
著者の倫理学に関する議論は時々理論的すぎるように感じてきたが、この本の人権についての章にも同じことを感じる。人権を法的でなく倫理的な要請として定義しようとする姿勢はとても興味深いのだが、法には国家権力を背景にした執行力があるが倫理にはそれがないという点について彼がどのように考えているのかがよく見えない。先述の「公共の論理」に結びつけていこうとしているらしいので私の理解力不足かもしれないが。
センの代表作と言えば今までは『合理的な愚か者』(勁草書房)か『自由と開発経済』(日本経済新聞社)辺りだったと思うが、読んだことのある前者は理論的でかなり難解。最近新書が相次いで出たようで入門にお薦め。コミュでも紹介されていた。
中村隆英『昭和経済史』 岩波現代文庫、2007年
有沢広巳監修、安藤良雄等編『昭和経済史 中』 日経文庫、1994年
(両方とも初版は1986年)
中村氏は私が学生の頃から経済史の大家として知られていた。何を突然経済史の本を買い集めているのかって感じですが、もともと経済史をちゃんと読むならこの人、と長年思っていたので本命に辿り着いたというところだ。尤も日経文庫の方の『昭和経済史』までゲットしたのは野口氏の本を偶然中古でゲットした勢いでかもしれない。
早速中村氏の方をちょっと読み始めたけれど、期待通りという感じ。講義録を文章にしたものなので、「ですます」調と「である」調がごっちゃになっていたりところどころ体言 止めになっていたりだが、そんなことはどうでもいいという位に読みやすい。その時々の政権の経済政策の記述もあり当時の産業構造の記述もあり、生活者の視点からの記述もありで視点が広く解説に厚さを感じる。戦後高度成長の原型は国家総動員体制にあったという記述も立法例つきでちゃんとある。憲政会と政友会による二大政党政治の構図の説明も、経済政策を比べるとわかりやすい。昭和という時代に関東大震災後の都市化が始まった旨の記述などは多少関東(東京)寄りの史観かもしれないけれど、この頃に昭和通りと靖国通り(「亀戸から…新宿へ抜ける」とぼかしてある)を十字の軸に開発が進んだ等とあって当時はまだ東京の中心が今よりも東側にあったんだなと感慨深い。高橋是清の経済政策がケインズを先取りしていたという話は巷ではよく聞いていたが、やっぱりへぇー!という感じ。太平洋戦争に突入していく様子も、日中戦争の長期化に伴い対英米関係が悪化していった為に英米からの輸入に頼らない資源確保を迫られていたという経済の視点で見るととてもわかりやすい。読み終えたら追記するかまたmixi日記の方にコメントする予定。
日経文庫の昭和経済史の方は、先日の日記にも追記したことだが、もともと1986年に一冊になって出版されていたものを内容を変えずに上中の二分冊にして再出版し下巻を新たに付け加えたもの。下巻は日経新聞の論説委員二名が執筆していたが、上中巻は学者やエコノミスト数十名による項目ごとのオムニバス記述だった。こちらにも中村氏も執筆陣に加わっている。
日記が空いてしまったのは、先週の日経文庫のオイルショック以降の経済史をちゃんと読んでいたのと、他にもちょこちょこと買い足していたから。そちらも機会があれば紹介します。
三橋規宏・内田茂男『昭和経済史 下』 日経文庫、1994年
約15年前に会社の生協ブックフェアで購入していたもの。日経新聞の論説委員が執筆した上中下巻もので、下巻はオイルショックからバブル崩壊まで。何故上2巻を買わなかったかというと、当時は高度成長は既に過去の遺産でありバブル以後の経済動向を追うにはオイルショック以後を押さえておけば良いだろう等といっぱしに考えたからだった。パラパラページをめくり、内容が専門的過ぎるように感じて「辞書のように活用すればいいのかな」等と思って長らく本棚の飾りにしていたが、その後知らず知らず経済を独学していく過程でいつの間にかスラスラ読めるようになったようだ。上中巻も中古で出ているので購入検討中。
マスコミ方面の方が執筆しているだけあって、成長率とか為替レート等の数値や、オイルショック当時トイレットペーパー購入に人々が殺到して83歳のおばあさんが足を骨折した話など、新聞読者の側に立った記述が多いので当時の生活がよりヴィヴィッドに想像できる。また、執筆当時は重要だった出来事で今の時代には忘れられてしまった事実があるのが興味深い。具体的には「スミソニアン体制」(固定為替から変動為替に移行する過程で、一度固定為替に戻そうとする動きがあった)や「日米繊維交渉」(日米貿易摩擦と言えば自動車・半導体や牛肉・オレンジ・コメをイメージするが、この本によると始まりは69年から71年にかけての繊維交渉だったようだ)、グリーンカード(マル優等の非課税貯蓄者にカードを発行するという形で虚偽口座を防ごうとしたもので、当時は「透明すぎる(!)」「資金が預金以外に流れてしまう」として中小企業等から反対が強くお蔵入りになったそうな)などなど。今騒ぎになっていることでも数年数十年先の歴史に残るかどうかを常に意識したいものだ(尤も本人確認法改めゲートキーパー法の成立により20数年を経てマネーロンダリング対策の目的で虚偽口座を防止する立法が出来たのも感慨深いが)。また、田中角栄内閣が発足した頃にもインフレターゲティング政策の導入が検討されていたというのは驚きだ。当時は経済学者はこぞって円の切り上げを主張し、逆に政界産業界の方が調性インフレに乗り気だったというから二重に驚き。結局変動為替への移行とオイルショックによる物価高で議論は自然消滅したようだが。
ただ…例によってまだ読んでいる途中だが、細かい事実が多過ぎる気が。既に知っている人が「ああそう言えばこんなことがあったな」と確認するように読むにはいいかもしれないが、いきなり読むとこんがらがりそう(初心者には野口氏の位が時代を掴めてちょうどいいのでは)。また、辞書的に使うには弱いと感じる人は政府や日銀の資料を使うだろう。今は絶版になっているのにはそういう理由もあるのかもしれない。
p.s.
このシリーズ、もとは上中だけで「昭和経済史」として一冊になって出ていたものにオイルショック以降を足して三分冊にしたもので、日経新聞の論説員が執筆しているのはこの巻だけでした。先日中巻をゲットしたけれど、金森久雄、宮崎勇、香西泰などなど著名なエコノミストが項目ごとにオムニバス式に解説しています。もちろん、伊藤隆や中村隆英など学者も。上中巻とも有沢広巳監修。
最近学生のように古本ばかりゲットしているなぁ…
ブクオフに入ったので中古でゲットしました:
p.s.
読んだ感想その他をmixiコメントの方に更新しました。
張競『中華料理の文化史』ちくま新書、1997年
最近回顧型の日記が続いているけれど、こちらも初版は97年だった。買ったのはつい最近、書店の店頭で。
軽い気持ちで読み流すように読めるわりには面白いこと興味深いこと満載の本。例えば中華料理として知られている料理の基礎が出来たのはほとんどが明や清の頃(四川料理によく使われる唐辛子も19世紀の頃から)だとか、麦の粒食から粉(小麦粉)食への変遷とか。日本では肉は魚介類以外は丸焼きを嫌うが中国では当たり前というのも言われてみればそうかという感じ(中国文化の影響色濃い沖縄では市場に行くとテカテカに光った豚さん達の丸焼きが並んでいますが)。中国にも昔犬を食べる習慣があり、後漢の頃から次第に忌み嫌うようになったというのも興味深い。
こうして列挙すると雑学リストのようになってしまうが、本業は研究者の方が書いているだけあって単なる料理紹介に留まらず文化史が意識されており、文献の裏づけもありで読み応えがあった。
高橋義人『グリム童話の世界 ーヨーロッパ文化の深層へ』岩波新書、2006年
もともと童話ではグリム兄弟のものが特に好きだったし、兄のヤーコプが言語学者・民俗学者でもあると同時に法制史学者でもあったことを知ってからは興味が深まっていたところだったので購入。非常に面白く、ここ数年で読んだ新書でも『新・民族の世界地図』『物語 チェコの歴史』と並び五指に入るくらいかもしれない。
他のグリム解釈ものを読んだことがないので比べられないが、たぶんこの本のポイントはドイツ語圏にキリスト教が広まる以前からあった非キリスト教的ゲルマン民族の神話と結びつけて読み解いている所よりも、口承伝承の発祥を農耕儀礼と関連づけた上で日本にも似たタイプのものがないか探っているところではないかと思う。
このような書き方をすると、ドイツの畑でジャガイモを植えるのと日本の田んぼで稲を植えるのとでは全然違うという反論が出そうだ。確かに表面的にはそうなの だが、重要なのはそういう表層的な部分での類似性/相違性ではない。日本の神話は一豪族が政権を握った後にそれを正統化するために政権掌握者側が編纂させ たもの(古事記・日本書紀)であり、大胆に言えば天皇家の武勇伝である。したがって農耕儀礼と関連づけられた「物語(ストーリー)」は神話には必ずしも反映されていないのではないかと思 う。そのような「物語」は農耕儀礼としての踊りや祭りと共に主に民間伝承の形で伝えられてきたのではないか(この辺、もう少し確認する必要あり)。対するドイツ(この頃はまだ連邦の集まりであ りドイツ国としては統一していないが)ではナポレオン戦争で負けて一度フランスの支配に屈していた頃にグリム兄弟が民話の編纂を始めており、最初に童話集 として出版されたのがナポレオンがモスクワに進軍しロシアに敗北した1812年12月。つまり外国支配の辛酸をなめ、文化により自国を強化しようという意 志が何らか影響していたと予想される(これはこの本の著者の主張でもある)。だから時の政権が自分達に都合の良い物語をでっち上げることで国内支配を狙えるはずもなく、まさに日本と逆で為政者の武勇伝ではなく農耕儀礼や民間伝承が神話の拠り所とされたのではないだろうか。
もっとも、日本でも他国支配に脅えながら自国文化の再構築が図られた時期はあった。幕末の尊王攘夷から明治維新の頃にかけてだ。でもこの時も国としての拠り所は古来の古事記・日本書紀に求められた(というか、当たり前のように日本史で習った天皇家の神話=「古事記・日本書紀」というのは実は明治維新の前後に確立された史実だったのだろうか?)。一つにはずっと武家政権が続いていたのを覆すには商人などの新たな政権を立てるよりも天皇を持ち出す方が容易だったというのもあったのかもしれないし、天皇に政治の実権を握らせるためには天皇家の神話を利用するのが好都合だっただろう。また、ドイツの場合は聖書と違ったところに拠り所を発見発掘することでキリスト教文化圏と独立の独自文化を開拓したかったというのもあったのかもしれない。この辺の研究がどうなっているのかは、興味深い。
ちなみにドイツ語圏固有の文化をうち立てようとする動き自体はグリム兄弟による編纂よりはるか以前の18世紀後半から起きている(「シュトゥルム・ドゥ・
ラング」=疾風怒濤と訳されるらしい)。ゲーテやシラーが有名だ。ゲーテは詩人であり弁護士でありながら科学者としての業績もある程に多彩な才能をもつ
が、しかし神話への耽溺などの傾向は見られないようである。また、ヨーロッパ圏一般で言えば政権掌握者による神話編纂に相当するのは聖書だろう。
2009年5月から始まる裁判員制度に備え、法廷用語を一般市民にわかりやすい言葉に置き換えるプロジェクトが日弁連内で進んでいた。その成果として用語集を出版。日弁連のサイトによると、正確には今回出版されたものは法律家向けであり、今月末に市民向け版として『やさしく読み解く 裁判員のための法廷用語ハンドブック』も出るらしい。
ちなみにこの本が出たことを最初に知ったのは某巨大掲示板のスレでだった。さすがにニュース速報などは読まないが、いまだに情報源としては機能しているのかと感慨深かった。
Mixi日記で簡単料理レシピを書いたことからふと思い立って古本でゲット。
『プーさんのお料理読本』 Katie Stewart 1971(原作)/1976(邦訳)
『プー横丁のお料理読本』 Katie Stewart 1980(原作)/1981(邦訳)
ざっと目次を眺めると"使える"ちょっと珍しいレシピは『プー横丁』の方が目につくのに、不思議と愛着を感じるのは『プーさん』の方なのは何故でしょう。
『プーさん』で目にとまったレシピ例:
はちみつをかけて焼くバナナ
カトルストン・パイ(簡単キッシュ・ロレーヌ)
『プー横丁』で目にとまったレシピ例:
りんごのコールスロー
パイナップルのベーコン巻き
ホットアラスカ(アイスクリームのオーブン焼き)
どちらも『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』にちなんだレシピ集。
『プーさん』の方は、全体的にはちみつを使ったレシピが多い印象。
---7/9 更新---
目次
http://books.bunka.ac.jp/np/book_mokuji.do?goods_id=2628
http://books.bunka.ac.jp/np/book_mokuji.do?goods_id=2185
ふとしたきっかけで松村栄子の小説を三冊ほど古本で購入。
彼女のことは芥川賞を受賞した『至高聖所ーアバトーン』を受賞当時
読んで知っていただけだったが、その時も新鮮な感性をもった人だと
思った。今回買ったのは『紫の砂漠』『詩人の夢』(共にハルキ文庫)
と『雨にもまけず粗茶一服』(マガジンハウス)で、何だか同じ頃に
受賞した小川洋子が着々と日向を歩んでいるのに対して文壇からは
イマイチ遠い所に居るような印象を受けてしまう(特にハルキ文庫の
方はコバルト文庫のような表紙)が、内容の方はかなり面白そう。
元々文体でなく中身で勝負する人だと思うので、こういう人は
日本の文学界には馴染みにくいのかなあ等とウラ勘ぐり。
ちなみに『紫の砂漠』の解説では『至高聖所』を例に「形而上的な
ものへの強い憧憬がその創作の動機にある」「神話への耽溺」「無機
的で乾いた鉱物的なものへの嗜好」、等と説明されているが、私が
読んだ限りでは『至高聖所』は単なる形而上の羅列ではなく、そう
いう”変わり者で今ひとつ俗世界に溶け込めない女子学生同士の
精神的交流”が最大のテーマだったように覚えている(文芸春秋で
読んだので今作品が手元にないが時間があったら検証しよう)。
今のところ『紫の砂漠』を 3/4 程読んだところだが、一見SFっぽい
同士の精神的交流を描くことに主眼がある、という印象。
早速彼女のmixiコミュも見つけて入ったら、萩尾望都の影響を受けて
いるのではないかという指摘が挙がっていて、ナルほどと思った。
尤もここ数年は茶芸にまつわる小話のような作品を書いているようで、
従来からの脱皮もはかっているのかな?
彼女への関心は、エミリー・ディキンソンや篠有紀子への関心に
通じるものがある気がする。文章が少々平易で冗長すぎる感が
ないこともないが、残り2冊も時間があったら読んでみよう。
--- 2007.6 家族掲示板で紹介した時の感想 ---
・松村栄子『紫の砂漠』 ハルキ文庫 (初版 1993年2月新潮社)
たまには小説も読むかとふと思いたち。
以前興味を持ってたのにその後すっかり忘れていた作家のかなり初期の
SFっぽい作品。
素直な文体から察するに、芥川賞を受賞(92年)する前から書き溜めていた
ものかもしれない?
アーシュラ・ル=グイン『闇の左手』にヒントを得ていると巷で言われているように、
子供の頃は男女の性が決まっておらず「この世でただ一人」の「真実の愛」の相手
に巡り会った時にその者同士の間で「生む性(女)」と「守る性(男)」が決まるという
設定。成人するために「詩人」と一緒に長い旅に出る設定や主人公の祖先が遠い
星に居る設定は特に珍しくないし、「聞く神」「見守る神」「告げる神」の設定は例の
"見ざる聞かざる言わざる"のモジリだろうから、この"性の決定"の制度がこの小説
の最大の特徴と言っていいだろう。
但し、SFとして読むと、話の筋の展開の甘さ・設定と展開の間の必然性などが
つい気になる(偉そうに言うのも何だが)。ご都合主義とは言わないが、「何故この
設定か」と「何故このように話が展開するか」の間の関係が今一つわからない気が
してきてしまう。この小説はやはりSFとして読むものではなく、SF的設定をとっか
かりに登場人物の心理描写や精神的交流がどのように描かれているかを読む
べきなのではないかと思う。
法哲学・法社会学的観点で言うと、「聞く神」が秩序を守るという位置づけが興味
深い。直感的には「告げる神」の方のように感じそうな気がするけれど、何か神話
などに根拠があるのかな?
「聞く神」と「見守る神」がどのように違うかも興味深い。
一見「見守る」ことが3つの行為のうち一番消極的な行為のような気もするけれど、
「見る」と「見られる」では「見る」方に権力があるという考え方もある。
この辺り、作者はあまり詳しく描いていない分いろいろ想像できそう。
作者自身は「聞く神」に一番思い入れがあるところにも好感。
法律を学ぶ人々を見てる限り、やはり「告げる」ことに秩序を見る人が多い気が
するので、「聞く」ことが秩序を守るというのはある種のスタンス・信念なのだ
と思う。私も同意・共感するけれど。